活丼

丼の活動

おばあちゃんに会いに行かない理由

 

ぼけーーっとしてたら夏が終わってしまった。

 

今年の夏もおばあちゃんに会いに行かなかった。

 

私は数年前まで親族の呪いに囚われていた。

でも、最近解放されたからだ。

 

私の祖母と祖父はかなり進行した認知症

祖父はさらに目が見えない。

 

中学の時から2人は同じ老人ホームに入っていて、私は何度かそれを何度も訪ねていた。

でも、何度訪れても慣れない。私は老人ホームという場所に足を踏み入れるのがとても怖い。

理由は何個かあるが。

 

分かる人にはわかってほしい。老人ホームは死の匂いがする。

ダイレクトな死臭とも違う、なんとも形容し難いような…病院よりも天国に近い場所なのではないかと思ってしまうのだ、いつも。

 

もう口も利けなくなって、自我があるかないかわからない状態でご飯を食べさせられている方を見ると私はどうしても、自分が1日、1日、その姿に近づいて行くビジョンをなんとなく想像して怖くなる。

彼らも、蝶よ花よと持て囃された時代を生きたのだろうか、若き日に恋や愛やをしたことがあるのだろうか。

「今」しか見えないとどうしても想像しづらい。

 

ま、これが一つ目の理由。

 

もう一つは会いに行っても私が知っている彼等ではないから。

 

会いに行く度に、何かを、私が誰かを忘れてしまって、最早そこにいるのは祖父と祖母の形をした何か。ということになる。

じゃあ会いに行く意味無いじゃーーーんて感じなのだ。

自分のことをかわいがってくれた2人じゃなくなってしまった今、「はじめまして」なんて言葉を何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も言われたとて、崩れないメンタルは持っていないということだ。

 

 

そういう病気なんだから仕方ないだろ!この人でなし!恩知らず!鬼殺し!(?)

と、思った人。いるとは思うが、実際に現実を突きつけられるときついのだ。

何度も同じやりとりを繰り返すことに耐えられない。ハルヒエンドレスエイトとか嫌いなタイプ。

 

最後は、親族からの呪いに耐えられないから。

私は現在そんなに親族と関わりを持っていない。

彼等が認知症で自分が誰か認識されてなくとも、沢山会いに行けば偉い、行けなくとも行く努力をしたら偉い、そんな小さい世界の評価基準に左右されたくないからだ。

ぶっちゃけそんなん自己満じゃんよ、

ホントは「誰かわからなくてもお世話になった過去があるし、会いにいかなきゃ...」

って、呪いを自分にかけてるんじゃない?

それでそれに当てはまらなかったら叩きたいだけじゃない?って思ってしまう。

ひねくれ者なのかもしれない。

 

高校生の頃は、部活がコンクールの時期で忙しくても会いに行って、甲子園のラジオを開きながら少し汗のかいた麦茶を飲んで、

何度も同じ昔話を繰り返す祖父に相槌をうっていたなぁとか。

祖母が、老人ホームには何も無い、でも今度お小遣いをあげるわ。きっとどこかに隠してある。とかよくわからないファンタジーを語り始めて苦笑いしたり、していたなぁなんて

遠い昔のことのように思い出す。

 

大体、はじめからこんな思想になったのではなくて、割と最近なのだ。

成人式の日に呪いから解かれたのだ。

 

小学生の頃、祖母が

「真実さんの着物姿、見てみたいわぁ。あと何年後かしら。その頃には死んでたりしてね」

なんて、私は当時成人式という概念をよく理解していなかったので

「そっかァ。」くらいにしか思っていなかったのだがその発言は何度も繰り返し言われたので覚えていて、

成人式の日に老人ホームまで祖父祖母に見せに行ったが、祖父はもう目が見えないので挨拶だけした。祖母は、

 

「アラー!あなた、綺麗ね。どこのお嬢さんかしら」

 

そう言ったのだ。

 

そうか、もう祖母は死んだ、祖父も死んだ。

あの頃の祖母の願望は彼女が生きていても果たされなかった。

なら死んだのと同じじゃないか。

死んだんだ!

 

そういう確信が私の中でハッキリとできて

それから私は今の考えに至った。

 

数年前の夏の私も、もう死んだし

 

これからも考えが変わってきっと死ぬかもしれない。

 

この話にオチはない。

 

自分にかけてあった呪いを浄化させたいだけの記事でした。