そんな記憶が形を変え今も離れていても守られているんだ
♩手紙/back number
こんにちはこんばんは
すこしだけ身体は引き締まってきたかな?と思うけど食事制限きっちりしてないせいで体重は変わりません
どんです。
今年の母の日は、「母の日テスト」という本をプレゼントすることにしました。
どんな本かというと、母に関する100の質問に答えていって、それを採点してもらってアハハ、ウフフ.......みたいな本です。
ただ、この状況で母に会う予定もなく、ただ郵送することになってしまうのですが…
しかもまだ完成してない()
っていうかこの本、本当にお母さんと友達のように仲良くなきゃ答えられない…というか、答えられなくて適当な答えを書くのもまた一つの楽しみ方なのかもしれないけれど
やりはじめてみるとあまりにも知らないことが多すぎて、これ詰みゲーなのではと絶望しました。
SNSでおかあさんだいちゅきアピールをたまにすると思うのですが、あれは実は嘘で
嘘で、っていうとまた語弊があるけど
23年かけてじわじわとわかったことだけど私と母は人間としての相性が全く良くないということ。
人間関係において大事な事は距離感と価値観だと思っているのですが、そういった意味で私と母は距離感が近すぎる他人だし、価値観が違いすぎる同士です。
理解し合えたと思えばあっという間に敵になるし、かと思えば分かち合える。
近い人間がそういうジェットコースターな感覚なのは私は嫌なのです。
なんだったら理解し合えることの方が少ない。
ならいっそ縁を切りたいくらいに考えてしまう。
よく、両親とあまり仲が良くないことを話した時に
「いやいやでも、親は誰でも子供が可愛いもんなんだよ結局」
とかさらっと絶望的なことを言う方がいます。
どんな間柄でさえ、分かり合えないことは希望、分かり合えないから多様性が尊重されてこう、なんていうの、生きやすい選択もできようもんだと私は思っているけど、その人の主張は「必ず分かり合える」
なのが気に食わないなと。
自分が両親と分かり合える側の人間だからこそ出る、想像力の乏しい発言だなと。
今でこそこうに思えるけど、そういう言葉は呪いのようで、私は愛されていないと思った時でも、どう頑張っても好きになれないと思った時にも「いやいやでも、可愛いもんなんだよ」と頭の中で響いて止まりません。
きっと可愛いもんなんだと、自分の中で素直に感じている可愛いだなんて思われてないと板挟みになって苦しんだ期間はずいぶんありました。
先ほど、距離感と価値観が人間関係には大事だと言いましたが
逆に距離感が適正であれば母とはいくらでも仲良くいられるのです。
その適正というと、私が芝居をする時に見に来て少しお話をする、たまに東京に出てきた時にご飯を数時間する、程度の距離感が一番適切で、心から母を愛せるなと感じます。
だから今後も母を一生好きでい続けるために、一緒に住むとかは考えられないし、頻繁に連絡を取りたいとは思いません。
そうやって離れることが私の母への愛です。
ただ、私の中の適正であって彼女にとっては多分そうではないことがわかっていて、私の通帳を見てはとやかく言いたいし、いろんなことに口出ししたいんだろうな、寂しいんだろうなこのお節介焼きが。
と、.......思うので。
私は早いところメディアに露出する人間になって、画面越しにたくさん母が私を感じられるようになる未来にしたいなと思います。
母の日のテストはなんにもわからない私だけど、それでも遠い距離から母を愛しています。
どんより