活丼

丼の活動

いつか僕らの自由時間が終わる日まで

ナタリー

♩ナタリー/さよならポニーテール

 

こんにちはこんばんは

セブンの硬いプリン、いつまでもありつけない

どんです。

 

午前四時、あまりの汚さに立ち行かなくなり部屋を片付ける。

 

自分の持ち物はとても多いけど、必要か必要じゃないか微妙なラインの物を捨てるのがとても好きで

ゴミ箱に投げ入れた時に感じる少しな背徳感のような、さっきまでは自分のものだったのにビニール袋に入れた瞬間に「ゴミ」になって、もう戻れない感というか、それが癖になる。

 

ひとつ、またひとつ、ああこれもあれもいらないやと捨てていく。

でも、その中で人からもらったものは絶対に捨てられなくて、芝居を始めてから人にもらったものがとても多いことに気づく。

自分で同じ物を買うのと全く違うのだ。

貰ったものの「もらった」という事実は自分じゃ絶対に作り出せないもので(当たり前体操)

変な言い方だけどその事実がある意味物そのものよりも大切というか、その人があっていない時に私のことを考えてくれた時間、気持ち、いろんなものが凝縮されて物に宿っているというか。

うまく言えないけど、小さな物でも人からもらったものは捨てられないし、誰にいつもらったのか、たくさんあるけど意外と覚えているものなのだなぁと掃除しながら自分で自分にびっくりした。

 

昨日二十歳になったんです…!

と、慣れないお酒をちびちび飲みながら話していた顔合わせはもう2年以上前。

一年ごとに振り返ると、芝居を始めた事実含め毎年毎年、飽きもせず予想もしないことが起こっている気がする。

22歳で言えば劇団に入る、が一番予想してなかったことだな。

23歳も予想しないことが起きるのだろうか。

起きて欲しい、どうか。

 

誕生日イベントでみんなの顔を見ていたら

見なくなった顔も、最近見るようになった顔も、自分の関わってきた人たちのことを丸ごと愛おしく思えてついつい友達のようにがっつりとした「宮下真実」丸出しで接してしまった。ははは。

 

わたしは本来「ゆうこりん」とか「恋汐りんご」とか「夢眠ねむ」のようなガッチリとしたキャラを貫いている人に憧れていた。

自分とは別のもう1人をプロデュースできる、ということに憧れていた。

ただ、実際今のわたしを見ていたらわかると思うが全く逆のコンセプトである。

作れないし、キャラを貫けない。

はじめこそそのように振る舞おうとしていたものの、それに限界を感じてもう素材そのまんまで勝負するしかないなといつからか思った。

嫌われるかもしれない、素材がいい子じゃないから。

勝手に幻想を抱いて、勝手に失望されて、そういうことが起きるかもしれない、てか起きてきた。

ただ、わたしのしたい戦い方とできる戦い方は違うというのを肌まで感じているからもう、はい!土から掘り出したじゃがいもです!くらいの勢いで自分をよく見せようとしなくなった。

 

それから今日まで、振り返ってみたら逆にそこを愛してくれる人がたくさんついてきてくれるようになった気がする。

 

未満ばかりのわたしを愛してくれてありがとう。

未満だからこそ愛してくれてありがとう。

頑張ってるね、だけで終わらせないようにきっちり形として結果を残せる未満になるよ。

だからさ、またあそぼうねえ。

 

どんより。